067256 ランダム
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紫陽花色の嘘

紫陽花色の嘘

書く女 2

 それは、氏家義幸にとって、突然すぎる災難だった。
 氏家は、タクシーの後部座席で流れる街の灯を見ていた。家に近づくにつれ、灯りは乏しくなり、それが郊外に住んでいるということを実感させる。本当はもう少し、通勤に便利なところに住みたかったのだが、贅沢は言えなかった。
今夜は同期との飲み会で、帰りがすっかり遅くなってしまった。
 昔、世の中がバブルという名の好景気に踊っていた頃の飲み会と言えば、接待ばかりだった。あの頃の接待は、楽しいものだった。
 当時、融資課の主任になったばかりだった氏家は、毎晩のように接待で痛飲していた。
 経費は使い放題だった。高級料亭や鮨屋を皮切りに、一流のバーをはしごしたりして、美食、美酒、美女と三拍子そろった接待を、氏家は心から楽しんでいた。
 それが今はどうだ。業務課なので接待はないし、自腹を切らなければいけない飲み会では、安い居酒屋とスナックで済ますのが関の山だ。
 今夜もその安いスナックで、出世した同期の自慢話を聞いているときに、気の利かないホステスにグラスをひっくり返され、スーツに染みを作ってしまった氏家は、ひどく不機嫌なのであった。そのうえ、こともあろうにそのホステスは、彼の頭のことを話題にしたのだ。
 遺伝的に、自分がいつか散髪の必要のない頭になることは、わかっていた。
 だが、若い頃は、そのことについてあまり気にしたことはなかった。確かに二十代後半の頃から、シャンプーなどのたびに抜け落ちていく髪の量が増えていることには気づいていた。しかし、特に対策はとっていなかった。
 ハゲがなんだというのだ? 男は仕事ができてなんぼ、ではないか。
 彼のその自信は、テレビ映画で見たユル・ブリンナーやテリー・サバラスの勇姿が瞼に焼き付いていたからかもしれない。彼らはみごとなスキンヘッドであったが、画面上で堂々と演じるその姿は、同性である氏家から見ても惚れ惚れとする男の色気があった。
 しかし、彼の自信はバブルの崩壊と共に、呆気なくしぼんでしまった。
 当時彼の所属していた課は、不良債権の根源とされる不動産会社に積極的な融資を行なっていた。直属の上司は関連会社に出向となり、氏家は何とか業務課の課長になることはできたものの、それ以上の出世の道は閉ざされてしまった。
 その頃から、彼と脱毛の闘いは本格的に始まる。
 ありとあらゆる養毛剤、育毛剤を試した。だが、市販されているものはどれも驚くほど効き目がない。よくもこんな効かないものを、堂々と売っているものだ。「継続して使用することが肝心」などとまことしやかに言うが、それは製薬会社の陰謀だろう。
中国へ旅行にするという女子行員がいたときは、頼み込んで漢方の強力な毛はえ薬を買ってきてもらった。だが、中国四千年の歴史も、何代続いてきたのかわからない氏家家のハゲの遺伝子には敵わなかった。
 取引先の会長に、「これは効く」と保証されて、玉ねぎのすりおろしたのを頭に塗ってみたこともある。だが、これはものすごく刺激が強くて痛い上に、臭いも二日間残ってしまい、一回きりでやめた。
 それでも懲りずに、今度はアロエのすりおろしを頭に塗ったりもした。こちらは塗りごこちはマイルドだったが、効き目は確認できなかった。それでも彼は、果敢に挑戦を続けていった。
 仕事のできない自分は、今やただの貧相なハゲでしかない。彼には、そんな現実を直視する勇気はなかった。
 今は、妻の愛読する健康雑誌に載っていた尿素水というものに、微かな望みを託す氏家なのであった。

 ――だいたい、そんなデリケートな話題を持ち出す無神経なホステスを雇うなんて。これだから、安スナックはダメだ。
 氏家は、気の利かないホステスに、しつこく怒りを燻らせていた。そのほうが、出世した同期に対する嫉妬心を自覚しなくてすむからだ。俺の気分が収まらないのは、常識をわきまえないホステスのせいだ。断じて彼の出世が妬ましいからではない……。
 嫉妬に悶え苦しむ情けない自分の姿を見たくない。それは、無意識の自己防衛ともいえる。
 機嫌の直らないまま、氏家は三十年ローンで買った我が家に帰り着いた。しかし、彼を出迎えた妻の美恵子は、もっと不機嫌な様子であった。彼が帰ってから、一言も口を利かない。
「おい、お茶漬け用意してくれ」
 だが、美恵子は頂き物のとらやの羊羹を頬張りながら、テレビの方を向いたまま、氏家を見ようともしない。
「おい、じゃあ水くれよ」
 だが、やはり返事はない。
「おい、どうしたっていうんだ」
 とうとう我慢しかねた氏家が声を荒げた。美恵子は、羊羹の最後の一切れを飲み込み、抹茶をすすると、静かに言った。
「さっきね、電話がきたのよ。女から」
 回覧板がまわってきたのよ、とでも言うような口調だったが、これが曲者なのだ。美恵子の怒りは、粘着質にしつこく長引く。経験上、氏家にはそのことが嫌というほどわかっている。
「何の電話だよ」
 心当たりはあったが、とりあえずとぼけてみた。
 美恵子は、あくまでも冷静だった。
「私たち、いつから別居していたのかしら。離婚も間近なんですってね。よその女から教えられるとは、思いもしなかったわ」
 氏家は渋い顔をした。蓉子のやつ、寝物語で言ったことを本気にするなんて、なんてバカな女なんだ。
 だが、美恵子にはそんなことおくびにも出さない。
「バカだなあ、そんなのイタズラ電話に決まっているだろう」
「どうかしら。五年前のこともありますし」
 五年前にも、氏家の浮気がばれて、離婚寸前の大騒ぎになったことがあった。
「あの女とは、完全に手を切った」
「他に女を作っているのなら、同じことなんじゃないかしら」
 美恵子は、巨体を揺すって立ち上がった。
「明日の朝一番で実家に帰ります。義輝と美奈は連れていくわ。お望みどおり別居してあげるから、これからどうするのか考えてちょうだい」
 美恵子は足音も荒く居間を出てゆき、後には酔いも醒めた氏家が、一人ぽつんと残された。
 ――冗談じゃないぞ!
 氏家は、美しい女が何より好きだったが、それでも家族が一番大事なのだと思っていた。
 それなら浮気なんかしなければいいのに、そこは「男の甲斐性」とか「据え膳食わぬは男の恥」などという都合のいい理屈で自分を納得させていたわけで。
 自分の浮気が原因で、家庭を壊すなどという気はさらさらないのであった。
 それにしても、蓉子はなぜ今更そんな電話をかけてきたのだろう。
 そういえば、彼女の同期の女性行員が、ここのところ立て続けに結婚していた。
 結婚など興味ない、という顔をしていたが、やはり周囲に先を越されるとあせってしまう年頃なのかもしれない。
 ということは、ここいらが潮時ということだ。
 義輝は十四歳。美奈は、まだ十歳だ。難しい年頃である。このかわいい子供たちを母子家庭にさせるわけにはいかない。
 また長い時間をかけて美恵子の機嫌をとっていくことを考えると、思わず氏家の口から溜息が漏れた。だが、仕方がない。明日はデパ地下の新倉屋に寄って、花園だんごでも買ってこよう。
 まずは、蓉子と別れるのが先決だ。
 そう決意すると、氏家は自分でお茶漬けを用意するべく、キッチンに立った。



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